2016年 10月 10日

直心

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直心とスマホで打っても改変では出てこない。
それは、この言葉を使う人が少ない事を直に表している。
ぢきしんー直心とは正しくまっすぐな心。
正直心。と大辞泉にある。
また、ひたごころとも読め、ひたむきな心、またいちずな心も表す。

いけばなをしている時、生ける人は花と直心で向き合わずにはいられない。花の意思はとても強いから。心を尽くして花を観て下さる人のために
ひたむきに生ける。心に欺瞞のある時、花はこちらを向いてはくれない。美しくならない。
稽古をしていれば幾ばくかの技術も身につくけども技術を使いこちらに向かせれば、どこか不自然な様子になる。見ていて苦しげな様子に誰も感嘆したりはしないだろう。
そんな時はこちらを向いてくれない花にも都合があるのだ、と思いなおして他のやり方を考えてみる。そうすると上手くいく。
私は直心を手に入れたとはとても言い難い、生々しい愚かさを持った人間だ。だからこそ直心を意識して生きていくために、私には「いけばな」が必要なのだ。ひたむきに自分の未熟さ弱さと向き合い、直心に近づけていく稽古は一生続く。

続けていくことは良くなっていくこと



指導も稽古も直心を磨く機会になりうる。だから私は稽古を続けていく。




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# by primenumber2 | 2016-10-10 10:56
2016年 10月 07日

百歳の力


「作品に依って生きる」ことを選ぶというのは、すごい生き方だろうなと
思う。くじ引きのような結婚なんて、と一人でおり、自立するために書道教室をはじめ
戦中の大変な時も、戦後の苦しさも乗り越え、ほとんど海外渡航者のいなかった時代に
ニューヨークで個展を開いた。でも、この人の凄さは其処ではない。
同じことを続けていく情熱と、それを持続させていくための自己運用の能力がこの人を
特別にしているのだなあ、というのが本の感想だ。


百歳の力 (集英社新書)

篠田 桃紅 / 集英社




篠田桃紅の展覧会に行ってきた。

ドキュメンタリーに出演したことや著書が10万部突破したことで、作品よりも人物や著書を
先に知った人も多いようだ。展覧会場には「百歳の力」が山積みに置かれていた。

2005年にオープンした高級ホテル・コンラッド東京の作品(壁画)で近年も注目される作風は
墨の多様な表情を生かした線の作品、書の作品両方あったがどちらも観ているときれい、というよりは快い、気持ちよいという感覚をもつ。漢字圏の国の人がもつ「字を見る」という快さ余白の美しさ、と抽象画の自由さが一体となった新しいアートという感じで、とても新しく感じる。

線の美しさ、間合いのよさ、ほんの寸分の加減のようなものは、著書のなかにも漂っている。
ゆっくりと呼吸をするように読ませる言葉
墨の線は、私のこころのあとだという、作品に込められた思い。つくることとは続けること。
ものを作る人の心に沁みる言葉がたくさんちりばめられていた。
本の内容はそんなに厚くはないけれど、篠田桃紅の呼吸を感じるボリュームとしては適正なのかも
しれない。
展覧会ではアトリエの写真も展示されていたのだが、インテリアがとにかく素敵。温かみのある民芸的なファブリックに趣のある唐紙、座り心地のよさそうなソファがあって、そこに昭和感はみじんもない。感性の老けない人って本当にいるのですね。
30代の私でさえ、時々90年代感を漂わす瞬間があるのに、だ。

本当に、この人はすごい。
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# by primenumber2 | 2016-10-07 20:37 | その他
2016年 09月 04日

リオオリンピックの花束

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今年のオリンピックはメダルラッシュ。
普段スポーツに関心のない人々もテレビ観戦に興じたりネット速報を心待ちにしたり、まさに祭典らしい華やいだ数日間。
オリンピックの起源は起源前9世紀、ギリシャを中心とするヘレニズム文化圏の宗教的な行事であった。ギリシャ神を崇め競技を行って奉納する。日本の相撲のようなものか。競技が行われる前後3ヶ月間は休戦の取り決めがあるほど人々にとって重要かつ神聖な行事だったことが窺える。

リオでは表彰台に登る選手への花束贈呈がなくなり3Dプリンターで製作されたオブジェが進呈された。神事を起源とするオリンピックで花束が省略されることは大変な事だ。
卓球日本代表の表彰時に私はこの事にふと気がついた。花が介在する物事には神聖が宿る。努力と才覚で勝ち取った勝利を聖なる神に捧げる、それがオリンピック勝者ではないのか。厳密には手渡される花束は勝利者への贈り物ではなく選手に宿る神性に対してか、勝利者が花束を受け取ってそれを高く掲げる。そうする仕草は神に捧げものをすることを連想させる。宗教的なことはこの点では割愛するが、勝利者が花束を掲げて行う仕草は感謝や祈りを思わせ人を和ませる。
花束をやめることを提案したのはリオ五輪のエグゼクティブプロデューサーであった。廃止の理由はエコでない事。表彰台に上がった後多くの選手が花束を持ち帰らず捨てて帰ることを理由に挙げている。
見えないものを信じ、今の自分があることを自力のみと考えるのでなく与えられものとして感謝して生きることの難しい世の中だと感じる。
花を扱う人々を通してしか見えないものがある。

次回のオリンピックでは花束が復活する事を切に願う。
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先日書道の先生の個展に出掛けた際に作ったブーケ。竹の皮と半紙を挟んで書道をイメージ。
リボンの代わりには水引を利用し来年はスイスで個展をされる先生にスイスっぽいアゲラタムを束ねた。






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# by primenumber2 | 2016-09-04 10:36
2016年 07月 01日

人は生けたら上品になるのか


最近、稽古関連のことはインスタグラムに任せたので
ブログはもう少し踏み込んだことを書くことにした。

いけばなの教室をやりたいという人が時々現れる。
そういう人はいけばなの先生をどう捉えているのだろう。
以前から、機会あるごとに人に尋ねた答えはこんな感じだった。
あれこれ人に言ってお代をいただく仕事
特別な才能がある人のやること
あれは仕事ではなく趣味という人もあるし、主婦の人が空いた時間でしているイメージという人も。

私はどうか、というと全ての人のイメージは
それなりに正解だろうと思う。
教える場所を持つことは自分の成長(鍛錬)のためにあるので色んな人が居て良い、とも思う。
教室では、まだ始めて間もない人の手の不自由なのを助け、生けたいものを形にする手伝いをする、いけばなの見所がわかるように働きかけることが私のメインの役割だという認識いう認識。

だけど、ひとつだけ相容れない価値観がある。
それは自分を上品に見せるため古風に見せるために
習いに来る人、先生になりたい人がある。

そういう人は人にあれこれ言いたがる。
ああでないといけないが多くなる。

私は、稽古は「ああでなければいけない」を失くすことだと思う。そうした方が良いという、先人の知恵に習うと感性は磨かれていく。磨かれるように精進する時間は人に品性を与え、生ける花に品格が備わるのではないかと思う。

花を習えば上品になるわけではなく、品格のある人の花には品性を感じるものなのではないのか。
花はいけたら人になる、という言葉を私は信じる。

















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# by primenumber2 | 2016-07-01 14:40
2016年 06月 09日

誕生木を植える

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母が杏の実を送ってくれました。
お菓子の入っていた丈夫な箱に丁寧に詰められたこの杏は、私が生まれた記念に植えられた木から採れたものです。小さな時からこの木に登り、青い実をすり潰したり集めたりして遊んで過ごした想い出がよみがえります。

紅く色づいた実ですが、食べてみると香りも味も水っぽい。きっと母は雨上がりに思いついて採ったのかと想像します。
雨の日にふと娘の事を思い出す。雨上がりに庭に出てみると杏の実はいくらか残っている。

母がどんな想いを巡らせたか。

私の誕生日は冬。その日には何も言って来ない母ですが杏の実が実る頃、花の咲く頃、紅葉する頃、季節折々に私を思い出している。この素朴な贈り物のやり取りは、とても母子らしく感じられます。

届いてさっそく玉青に供えました。





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# by primenumber2 | 2016-06-09 10:31